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技術書と開発業務が一番の先生だった。私が、エン・ジャパンでVPoEになるまでの全記録

こんにちは、小澤正幸と申します。小澤と書いてこざわと読みます。ご縁があってエン・ジャパンにきて、VPoEとして、engageなどのサービスの開発内製化を進めたり、そのための組織づくりとして、採用・育成活動をがんばったりしています。手品が好きです。

自己紹介も兼ねて、これまでのエンジニア人生を振り返ってみようと思います。これから一緒に働くみなさん、今一緒に働いているみなさん、こんな人もいるんだとやさしい目で見てもらえたら嬉しく思います。

# 中学生ぐらいまで(1979-1994)

「パソコンが家にある」は、ちょっと変わった人の家、という時代。小学校からの友達のO君の家にはパソコンがあり、よくわからないながらに時々触らせてもらってました。彼のお父さんの趣味だったようです。正直なところ、当時はファミコンの方が楽しかったです。

# 高校生(1995-1998)

高校に進学すると、今度は同級生だったK君が自分のパソコンを持っていて、無性に羨ましく、親にねだり、NECのPC-9821Ne3を買ってもらう。ただ、今だから言えますが、正確には買ってもらったのではなく「家で仕事をするから」という名目で父が勤め先のお金で買ったものを家に置き、それを好きに使わせてもらってました。父の勤め先には大変感謝しております。

MS-DOS+Windows3.1の時代でしたが、すぐにWindows95がリリースされました。今となっては信じられないかもしれませんが、OSのバージョンアップで、電気屋に行列ができた時代でした。

よくやっていたのが、パソコン通信(NIFTY-Serve)。いろいろとフリーウェア、シェアウェアをインストールし、特に目的もなくただただ触ってました。プログラミングをやってみたくなりましたが、数学(情報の科目はまだなかった)の教科書に書かれているBASICっぽいプログラミングぐらいしか入り口が見当たらず、Windows用のC++コンパイラ/IDEなんかがそもそも数万円はした時代。手が出ないし、よくわからなかったのでした。今で言う「なでしこ」みたいな、Windowsアプリを制御するバッチファイルを、よくわからないなりに書いたりしてました。

(その頃だって、Linux、Perl、Rubyなどは存在していたはずで、もし出会えていたらな、とたまに思うことがあります。)

ビルゲイツとかを見て、すごいプログラムを書けるすごいプログラマーになったらすごい(語彙力)と思い、調べたら「工学部の情報学科」がどうやら近いことをやる学部らしいと知り、三者面談で「情報学科に行きたい」と言ったら、親から「アナウンサーにでもなりたいんか?」と言われたことを覚えております。

# 大学〜大学院(1998-2004) 

プログラマーになるためにある大学の工学部情報学科に入ったものの、コンピューターサイエンスの洗礼を受けました。

「英語とプログラミングはどうせ必要なので自分で勉強するだろう。プログラミングは自分で勉強しろ。」
「教授の中にもう一人Lisp派がいたらCじゃなくてLispで演習するのに。」
「君たちはソフトウェアをやりたいだろうが、もし、社会に出て情報学科専攻だったと知られたらハードウェアもできないとダメだ、と言われるに決まってる。なのでハードウェアはみっちりとやる。」

みたいなところでした。今でもちょっと納得がいってない。Lispの演習もありました。

このころ、大学の演習室でHPとか、SGIとか、Sunとかのワークステーションと、そこに入ってるUnix (HP-UX/IRIX/Solaris) を触るように。テキストエディタもemacsかviを使えと教わり、以来emacs派に。Microsoft Windowsとは色んなことが違い、最初は泣きたくなるぐらい使いにくかったです。

そんなこんなで、泣きながら地下室でトランジスタとかの電圧とかをオシロスコープで測ったり、同じ地下室で回路の配線を繋いで四則演算ができる計算機のような何かを作らさせられたり。他、演習ではCでPascalのコンパイラを、コンパイラのための理論がまだよくわかってないのにがんばって書いたりしました。

どれも、動いたような…動いてないような…みたいな出来でした。

この頃、手品と出会い、勉学がそっちのけになりかけたものの、留年はしないようにはしてました。どんどんよく分かってないことが増えましたが、不思議と成績はそこそこ良く、計算機科学コースと数理工学コースに分かれているうちの、人気だった計算機科学コースへ。そして、そのまま大学院の研究室に進みます。

データベースの研究室の先生が面白い人だったので、そこを志望して無事に配属。論理データベースとか、演繹データベースとかの研究でしたが、正直なところよくわかってませんでした。関係データベースよりすごいはず、なのですが、NoSQL全盛の今もあんまり見ないので、人類には早すぎたのではないかと今でも思っております。

研究のプログラムを書くため、PerlやJavaを知り、そちらを使うようになり、それまで触ってたCと比べ、分かりやすくて感動しました。

このあたりで、そこそこ書きたいプログラムが書けるようになりつつ、あんまり会社員に向いてなさそうなことにも気がつきます。

# 就職

## 一社目:凸版印刷株式会社(2004-2006)

会社員には向いてなさそうな気がしつつ、就職。

当時、情報学科を出ても、周りには、いわゆる上流の方のSE/SIerになり、早めにまったくプログラムを書かなくなるキャリアを歩む人が多くいると聞いてました。ウォーターフォール全盛の時代、プログラミングをする人はコーダーとも呼ばれ、大変らしい、とも。

ただ、プログラムを書く仕事はやりたいと思っており、論文を書くときに使っていたTeXや、それを作ったKnuthというコンピュータサイエンスのえらい先生に憧れ、組版への興味が芽生えてました。

そんな中、大学近くで開かれた合同説明会に凸版印刷がブースを立てており、そこで、リクルーターをしていたある面白いおじさんと出会います。
「ソフトウェア開発部門があり、カタログを印刷するときに使う写真データなどを溜め込むためデータベース(の上に被さるアプリケーション)を、パッケージ製品として社内で社員が開発している」

という話が聞けました。さらにスーパーフレックス制度なる、コアタイムなしのフレックス制があるらしいのも、通勤が嫌いな自分に合ってるように思えて、言われるがままに選考フローに乗り、就職を決めます。その面白いおじさんがいなかったら入社していなかったでしょう。今だったら、いわゆるWeb系の企業をいくつかあたって就活していたと思います。

大学を出るまで、常に何かを勉強しなければいけない状況でした。それが就職して試験などがない生活に。また、会社から退勤したら宿題がない。勉強の義務がなくなり、重しが取れたのか、むしろ情報への飢えが生じ、いろいろな本を買うようになりました。そのころ小説を読む習慣がなく、技術書と理工学書を随分と買い込みました。どの本もすごく面白かったです。

「よくわかる〜」のような本のおかげで、なんとなく使えたJava/Perlもより深く知りたくなり、オライリーの紫色の本(Java)と、水色の本(Perl)はほとんど一通り買い込んで読み込みました。Perlの作者、Larry Wallすごいなと尊敬したり。エンジニアとしての物事の考え方のベースができあがった気がします。

この頃、プログラミング言語を覚えるためには「できるだけオフィシャルに近いきちんとした本」(Javaならゴスリンの「プログラミング言語Java」、Perlならラクダ本「プログラミングPerl」といった本)と、APIリファレンスや「クックブック」といった本をペアで読み、習得するスタイルが身につきました。(今は、そういったリファレンスは、オンライン化が進み、紙の本としては出づらくなりました。)

その他、「コードコンプリート」とか、「リファクタリング」とか、デザインパターンの本といった、きれいなプログラムの書き方についての本もこの時期にかなり読みました。丁度「コンピュータの名著・古典 100冊」というブックガイドが出た頃で、そこに載っている面白そうな本を順に読んでいこうとしたり、少なくとも買い込んだりしました。大学の講義があまりカバーしていない領域も多く、とても性に合いました。また、コンピューターサイエンスについても、数理論理学や計算可能性など、数学読み物の本で読み直すとパズルのようで面白く、大学時代にはいまいち分からなかったことが、ようやく分かったような気がしました。

開発言語のメインがJavaでサブがPerlという職場で、学生の頃から触っていた言語とマッチして(といいつつ、選択肢が少ない時代でもあった)、思う存分プログラミングできました。

そして、技術書を読み込む中で、実践と理論が噛み合い、情報学科ではあまり身につかなかった「プログラミングスキル/設計の技量」が上がったように思います。あまり、先輩から手取り足取り何か技術を教わることはなく、技術書と、開発業務が一番の先生でした。

人としては、「やや高圧的な」チームリーダーや、天才的だけどテーブル名を全部数字で付ける「天才エンジニア」など、クセの強い人がいて、記憶に焼き付いております。

二年と少し働く中で「パッケージの値段でソリューションやってたらあかんよな」とか、いろいろと見えてくるところがありました。「ここにずっといると技術者として良くない」「誰か海外のすごい人が作った技術を使うだけのエンジニアになってしまう」と感じて転職をすることに。処遇にもあまり納得がいかない色々がありました。

(なお、入社のきっかけになった面白いおじさんは後にソフトウェア開発部門のえらい人だとわかるのですが、私が入社して一年で東京へ単身赴任され、それが合わずに退職されました。結局「スーパーフレックス制度」も、研修期間のうちに会社の方針で廃止され、一度も体験できずじまいに。)


## 二社目:ジャストシステム株式会社(2006-2010)

徳島にあるジャストシステムというソフトウェア会社に転職しました。パソコン黎明期にワープロソフト「一太郎」と、そこから派生したかな漢字変換ソフト「ATOK」を生み出し、大きくなったIT立志伝中の会社でした。

一社目に勤めていた頃、さまざま読んでいた技術書の中に、「電脳日本語論」というATOK開発のドキュメンタリがあり、ジャストシステムのその技術ドリブンな会社のあり方に魅了され、また、徳島での開発生活にも憧れました。

その頃、主力製品「一太郎」がMS Officeに押され気味で苦境にあった時代。起死回生の策として「xfy」という「JavaとXMLでどんなドキュメントでも編集できる未来のワープロ」というべき「基盤技術」にものすごい開発投資をしてました。そのための開発者を求めており、JavaとXMLという点が当時の自分のスキルセットとも合ってました。

明石大橋を高速バスで渡って徳島で面接を受け、内定を得て転職。伝説の社長と専務の夫婦は、「JavaとXMLで世界を征服する」とわりと本気で言っていて、めでたくその尖兵となりました。

社長と専務の下には、かつて天才プログラマーとして知られた常務がいて、当時すでにプログラミングはしない管理職となっており、私はその方の部下でした。大変評価してもらい、良くしていただきました。パソコンクラブがそのまま大きくなったような、エンジニアがソフトウェア開発をするには、とても良い環境でした。

- 開発者一人一人に、パーティションで区切られた区画(キュービクル)があった。(Dilbertとかにでてくるやつで、大阪/東京では考えられなかった)

- 元々社屋は徳島駅前の市街地にあったそうですが、私が入社した頃は、レンコン畑しかない区域の真ん中に、どーんと、巨大な自社ビルが建っていました。元々は自治体がテクノロジー関係の企業を誘致していた区域らしく、他にいくつかそういったビルがありましたが、際立って大きかったです。通称は「サティアン」。元は研究開発棟だったそうです。

- 阿波踊りが盛ん。ことあるごとに踊る陽気な社風でした。

- 社員寮代わりに借り上げのアパートがレンコン畑の社屋から自転車で20分ほどの所にあり、そこに入居させてもらってました。10畳ほどの広めのワンルームで、家賃負担が3万円ぐらいでした。自動車で通勤する同僚も多かったし、送迎バスも出してくれてましたが、自転車で通ってました。

- 社員食堂が素敵でした。無料でこそなかったが、東京から家庭の事情で徳島に帰郷していた腕のいいシェフを雇用し、とても美味しい料理を出してくれてました。独身で飲食店もあまりない地域だったので、三食大変お世話になりました。徳島は讃岐うどんの文化圏であり、セルフうどんコーナーもありました。おいしかったです。

- 社屋に大きめの図書室、シャワールーム、保育室などもありました。(どれもあまり使われていなかったものの、図書室にはたまに忍び込んで、そこにある本を漁ったりなどしてました。)

- 当時、先端の技術会社であったので、頭が切れる先輩開発者が何人もおられました。必ずしも人間として反りが合う人ばかりでもなかったが、色々なことを教わりました。新卒の技術者採用に成功している会社だった(と思います)。情報系修士/博士を中心に、他、理系学部出身者、文系出身者をほどよいバランスで何年も採用してました。(そのすごさを今まさに新卒採用業務をやりながら思い知っております)

一方で会社には決していい人たちばかりではなく、さまざまな人がいると学びました。かといって悪い人ばかりでもなく、ブルーハーツの「TRAIN TRAIN」みたいな感じでした。

この時代、プログラミング技術的には、RFCやW3Cなどの標準技術を読み解き、それに従った実装をしたり、GUIアプリケーションを本格的に実装したりといったことをかなりやり、そういう技量が身につきました。

それよりも大きな経験として、後輩エンジニアとチームを組み、それをリードしていく、技術者ではない人たちとの窓口になって働く、時には闘う、ということをたくさん経験しました。ステークホルダーのみんながてんで好き勝手にバラバラなことを言う中で、落とし所を見付けるのが上手くなったように思います。

ですが、どうもやっぱりビジネスとしては目を向けた先が良くなかったようで、過剰投資に関わらず、いつまでも基礎技術のまま芽が出ないxfy/XML事業でドンドンと会社は傾いていくことに。そんな焦りの中、「技術的な革新性を生かしつつ、売り物になるものを開発せよ」といったオーダーが社長と専務から降ってきました。そういったプロジェクトも、さまざまな困難がありつつ、がんばって作ってはみましたが、でも、あんまり売れずじまい。

ただ、ソフトウェアと言えば「年一回新しいバージョンをCD-ROMに焼いてリリースして値段を付けて売るもの」であった文化の会社で、「この状況ではアジャイル開発が正義だ」と主張して、「何が正解か分からない中でイテレーションのサイクルを回し、オンラインでリリースして、まずかったら直す」という流れを持ち込めたのは、自分としては良い体験をしたと思っております。

作ったのはこんなのでした。
xfy Plannerは情報管理ソフトの新星になるか? 2009年10月29日 
https://ascii.jp/elem/000/000/472/472050/

でも、やはり売れなくてドンドンとジリ貧となっていきました。そんな折り、ジャストシステムは、エンタープライズ事業でxfyを売り込みにいった会社、キーエンスと事業提携。創業者夫妻も退陣して社風がガラッと変わり、いろいろとエンジニアとしてやりにくくなるなか、転職を決意しました。いわゆる「Web系」の興隆、iPhone登場によるスマートフォンゴールドラッシュが見えつつあった時代。そのまま在籍すれば、C++でWindowsアプリを経験が薄い中で作ることになる気配もあり、そのことも転職を後押ししました。


## 無職(2010-03〜04)

ジャストシステム退職を決意してから、仕事探しをしました。徳島からいくつかの企業をあたったもののいずれも不採用。住まいは扱いとして社員寮であったため、退去期限を迎え、次の仕事が定まらない中、一旦実家の大阪に帰ることに。親元で肩身が狭い思いをしたり、勢いで退職を決めたことをちょっと後悔したりしつつ、失業保険などの手続きに詳しくなりました。

関西でも転職先を探しましたが、あまりうまくいかず東京に出ざるを得ないと覚悟。本腰を入れて「ウェブサービスか、スマホアプリか」で東京の会社を探します。当時、父親が東京に単身赴任をしており、そのアパートにしばらく泊めてもらって、東京の転職エージェントや、Web系の会社をまわり、livedoor社より内定を得ました。

当時は、ライブドア事件後で苦労していた時期ながら、Perl開発者から見れば、コミュニティーでも著名な、腕利きのエンジニアが多数在籍する技術力がある会社でした。内定が出たその日にNHNによる買収が報道され、驚いたことを覚えています。


## 三社目:株式会社ライブドア→NHN株式会社→LINE株式会社(2010-2015)

ということで、30歳で東京に出てきて、ブログサービスの開発者となりました。一社目、二社目ではサブ言語であったPerlで、メインの仕事をして、業務品質のコードが書けるようになりました。

東京は生活費がかかり、技術書やその他書籍をバカスカ買い、お酒もガンガン飲んでいたせいで、生活はいつもちょっと苦しかったです。ただ、技術者としては自社サービス会社の花形のサービスを担当し、充実したエンジニアライフを満喫しておりました。

Web系企業のいわゆる「Webディレクター」職の人たちともこの時期、接し方を身につけました。

また、サービスを「運用する」というのはどういうことか、これまでの会社でもなかったわけでもないですが、ソフトウェアを書いて出荷するのとは違う世界があり、色んなことを学びました。

ここでもやはり腕の良い先輩エンジニアがいて、手取り足取り教わったわけではないですが、その人たちが書いたコードや設計などから色んなことを学びました。

この時期、Ajaxが十分定着してブラウザの上で何でもできるようになってきて、スマホ以外でのGUIアプリケーションの優位性が完全に崩れ去っていきました。当時はバックエンドのコードもフロントエンドのコードも、同じエンジニアが書く体制だったのでJavaScriptも完全に理解しました。jQuery全盛期でした。

また、当時、iOS/Androidのアプリ開発はバックエンドのエンジニアの中から興味を持って手を挙げて、転身した人が担当していましたが、アサインの事情で、担当サービスのアプリを誰も担当しない状況となってしまいました。

半ば、やむなくではありましたが両方の開発をメンテナとして担当し、おかげでフルスタックな一時期を過ごすことができました。Java経験や、GUIアプリ経験がちょっとは活きたはずです。

そんなこんなしているうちに、NHN/NAVERとの統合が進み、隣の部署でLINEが開発されローンチし、社名もLINEとなりました。オフィスもどんどん立派で快適になり、エンジニアとしての環境も良くなっていきました。そんなこんなしているうちに色々あって婚活もして、一年の交際の後、結婚しました。

しかし、ずっと開発者をしている限り、お給料が小刻みにしか上がらない。年に10~20万円上がるというのを10年続け、やっと年俸が100万円上がる生活に経済的な面で行き詰まりを感じ、収入を上げるための転職活動を考え始め、知人が興した会社に転職します。


## 4社目:某社

四社目でビジネス向けにSaaS展開していたチャットサービスの開発に加わりましたが、歯車が噛み合わず一年ほどで退職。技術的にはJavaの会社で、electronとかansibleとかに触れたのは良かったです(ポジティブシンキング)。差し支えが色々あって詳しくは書けない。ごめん。


## 五社目:LINE株式会社->LINE DIGITAL FRONTIER (2016-2021)

そんなこんなで気がつけばLINEに出戻ってました。いなかった一年の間に何があったの?と思うぐらい、livedoorのメイン言語であるPerlから、NHN/NAVERのメイン言語であるJavaにシフトしてました。あるいはしようとしてました。

おかげで会社を離れていた間に、取り入れたい技術を触っていた人(…というところが評価されたのかどうかは分からないが)ということで、給与はかなり上がりました。

さて、復職最初にアサインされたプロジェクトはLINE NEWS。JavaとPerl両方触れるエンジニアとして重宝がられ(ていたような気がし)ます。小振りのサブサービスの開発、リードなども手がけ、途中別サービスをちょっと触ったりなんかもしたが、それなりに楽しくやっておりました。

そんなこんなで、一年ちょっとやった2018年頭に、「新サービスを開発するので、エンジニアの頭として動いて欲しい」と要請を受け、ある程度企画レベルで進行していた話に、一人目のエンジニアとして参画したのがLINEキャリア(仮)でした。
「LINEの中でお仕事が探せる」という求人サービスですが、LINE一社だけで、求人サービスは作れません。そこで提携したのがエン・ジャパンでした。

そこでエン・ジャパンで現在役員を務める寺田さん、岡田さんほか、みなさんと一緒に仕事をすることになりました。これも縁だったのだろうなと思っております。

サービスを正真正銘の0バイトから開発するというのは久しぶりの体験であったので、中々腕が鳴りました。サービスとしてはエン転職やengageといったサービスの求人をLINE側に取り込んで表示したり、応募を流したり、色々な施策を打ったりといったことをしつつ、技術的には途中からKotlinを導入したり、大規模な分散処理にKafkaを導入したり、やはりアーキテクトとして色々決めて動けたのはとても良い経験でした。

いろいろな困難はありましたが、2018年「夏」の10月にサービスイン。2019年、クローズが決定されるぐらいまで一貫して担当でき、楽しくやっておりました。

その後、LINEキャリアから外れて「LINEマンガ」に携わることに。丁度この頃からリモートワークが開始されました。稼ぎ頭のサービスでもあったのでお給料もアップ。一方で職責、サービス負荷、心労もアップ。しばらくの間、休養を取ることに。そういった中で、その頃には良い飲み友達になっていた寺田さんに誘われたことが縁となり、エン・ジャパンに転職しました。


## 六社目:エン・ジャパン株式会社(2021-)

ということで、エン・ジャパンに来ました。デジタルプロダクト開発本部という、サービスの企画・開発・マーケティングなどを担当する部門でVPoEをしています。特に今は、engageというサービスに注力しています。あまりプログラムは書かなくなりましたが、プログラムを書く以外にも、エンジニアがエンジニアとしてやるべき仕事はいっぱいあるんだなあと思いながら、色々やっております。こういう作文を書いたりするのもそうです。

さて、これからですが、engageの開発を率いつつ、採用、育成、制度設計のほか、エンジニア組織を作る仕事をしていきます。今まで働いてきた会社それぞれの、エンジニア組織の良いところを再現できるように、そしてもっと面白いことができるように色んな手を打っていきます。自社サービスを開発/運用していく組織として、「頼まれたこと」はもちろん、「頼まれた以上のこと」「頼まれてもないこと」もやっていく、そういうところにしていけたらいいなと思っております。

長くなりましたが、そんなこんなで、一緒に働いてくれる人を切実に求めております。

もしご興味があれば、以下のリンクからぜひチェックしてみてください!

[キャリア採用(中途採用) | エン・ジャパン株式会社]


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